はじめに
明治になって、正岡子規が古今和歌集をくだらぬ歌集と評し、写生歌を推進して以来、歌詠みの世界では、古今調の歌は時代の趨勢から置き去りにされてきた。
他方、国文学の世界では、今でも古今和歌集は歌の最高規準として崇められ、研究され続けている。
この隔絶について、どう考えるべきか。私も歌を詠むときは、写生を基本としてきた。
その目で古今和歌集を読むと、そこに収録されている千百余首の歌すべてが最高規準だとは到底思わない。さりとて、写生歌が推進され早や百年余の現在、毎週、新聞歌壇に掲載されている入選歌が、子規が批判した古今和歌集の歌より優れているとも到底思わない。
明治という時代に写生歌が推進されたことは評価する反面、古今和歌集が伝えてきた歌の伝統を、その後歌詠みの現場から放逐してきたことを悲しむ。
現代の歌が失っているものは、相聞歌等にみられる歌が本来有していた双方向性、および序詞・枕詞・掛詞等の使用によって齎される調べと歌意の多層性である。
今般、失われた歌の伝統に少しでも近づきたいと思い、古今和歌集の歌百首に対し自詠歌を歌合の形式で詠んだものである。
古今和歌集の歌100首に対する歌合は完結しましたので、新古今和歌集の歌100首について歌合を開始しました。
2 あなたが歌合の「判者」になって、「良い」と思う歌があれば「拍手」をクリックして下さい(拍手ボタンを左右の歌に2つ付けても、別々にカウントしないため 左右どちらかの歌について評定して頂く形式です)。また、ご感想を「コメント」して頂ければ幸いです。
3 古今和歌集あるいは新古今和歌集に収められている歌で、百人一首に選ばれている歌は別のブログ「百人一首と遊ぶ 一人百首」に掲載しているので、本歌合には登場しません。
歌合一番
(秋歌上 169 藤原敏行朝臣)
左 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
右 昨日の日は涼しと聞きし風鈴を時じとおもふ今朝の風かな
長い残暑ののち、秋が来たなと先ず思うのは、目に見える物に対する視覚の変化からでなく、風による涼しいという触覚からであることが多い。
そして、その触覚の変化は、それにとどまらず、左歌が詠うように風が簾を揺らす音とか、右歌が詠うように風鈴の音などを聞く聴覚に作用し、物理的には昨日までと同じ音であってもそれまでと違った音に聞こえ、聴覚に変化を感じさせるから面白い。
「時じ」は、時季でないという意。
左右の歌は詠者の体験による写生歌であるが、古今和歌集の歌から五〇〇年後の室町時代の人、正徹に「沖津かぜ西吹く浪ぞ音かはる海の都も秋や立つらん」の歌がある。同じ着想であるが、写生歌ではなく、歌が時代と共に大きく変化していったことを感じさせる。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二番
(恋歌四 715 とものり)
左 来ぬ人の宿にこそ鳴け蝉しぐれ吾の哭びと心づくまで
右 蝉の声きけばかなしな夏衣うすくや人のならむと思へば
蝉の声に寄せて、相手の心変わりを詠んだ恋歌。
左歌は、秋が近づいてきた気配のなかで、蝉が腹の底から絞り出すような声で鳴いている、近ごろあの人の心にも飽きが来たのか訪れてくれなくなった、蝉よ、あの人の家のそばに行って鳴いておくれ、私が大声で泣いているとあの人に分かるまで、と絶唱している。
右歌は、蝉の声を聞くと私は悲しくなる、蝉の羽根のようにあの人の愛も薄くなったのではないかと思うので、とこちらは静かに詠んだもの。
「左」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合三番
(秋歌上 219 みつね)
左 秋萩の古枝に咲ける花見ればもとの心は忘れざりけり
右 野の風に古枝の末をなびかせてさはに零るる秋萩の花
左歌は、男が秋の野でたまたま遇った、昔親しかった女性と話をしたときに詠んだ歌。
女性を秋萩に見立て、秋萩が昔咲いていた枝に今も花をつけているように、女性の心は変わっていなかった、と詠っている。
右歌は、そのとき女性が詠ったもので、あなたは萩の古枝の先を靡かさせて花をたくさん零れさせ、さっと過ぎゆく野風のように、私の古い心を揺らして涙をこんなに零れさせたと詠んでいるものである。末は心の「うら」とかけている。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合四番
(恋歌四 686 凡河内みつね)
左 かれはてむのちをば知らで夏草の深くも人のおもほゆるかな
右 夏草の思ひ萎えしわが庭にはや秋立たむかかれそめにける
恋の別れを夏草に寄せて詠んだ歌。
左歌は、枯れ果てる後のことも知らないで夏草が深く茂っているように、別れた後のことも考えないで深く人を愛してしまったことよ、と詠っているもの。
右歌は、夏の暑さに萎れている夏草に、早くも秋風が吹いて枯れてゆくように、私はあなたに対する熱い思いで身も萎れていたが、早くもあなたに飽きが来たのか、私から離れようとしている、と詠っているもの。
両歌とも、「かれ」は「枯れ」と「離れ」をかけている。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合五番
(秋歌上 246 よみ人しらず)
左 ももくさの花の紐とく秋の野に思ひたはれむ人なとがめそ
右 まぐはしきものにも刺はひそむらん心しいろへ秋の野の花
「ももくさ」は百草と書きいろんな花の意。秋の野にいろんな花がいっせいに咲きだしたので、心ゆくまで花と戯れよう、誰も咎めないで、と左歌は詠っている。
これに対して右歌は、うつくしい花の中には棘をもっている花もあるから、注意して触りなさい、と忠告して詠っている。
「紐とく」は花が咲く意味であるが、男女が睦ましくなる意味もある。両歌とも、後者の意味をも秘めて詠っているものである。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合六番
(秋歌上 191 よみ人しらず)
左 白銀の勾玉あゆぐ様なして月の首辺を雁わたりゆく
右 白雲にはねうちかはしとぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月
秋の月明かりの空を、雁が渡ってゆく様を詠った歌。
左歌は、月光に照らされて月の直下を飛んでいる雁の群れが、銀製の勾玉のように輝き、まるで月の首飾りが夜空に揺れているように見える、と詠っているもの。
これに対し右歌は、白く映える雲を背景に雁の群れが羽ばたいて飛んでゆく姿がよく見え、その数さえはっきり数えられるほど明るい秋の夜の月であることよ、と詠んでいるものである。
「左」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合七番
(恋歌四 725 よみ人しらず)
左 おもひわび秋立つ空をながむれば雲さへ薄く流れゐるなり
右 おもふよりいかにせよとか秋風になびくあさぢの色ことになる
秋に寄せる失恋の歌。
左歌は、近ごろあなたの訪れが稀になり、不安な気持ちで過ごしているが、空を眺めると空にも秋が訪れており、あんなに厚かった夏の雲はどこにもなく、はかないばかりに薄い秋の雲が流れている、と悲しみにくれている歌。
右歌は、心から思っているのに、これ以上どうせよというのだろうか、秋風になびく浅茅が色を変えるように、あなたの心も変わってしまったと、責めて嘆いている歌。
「左」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合八番
(恋歌四 735 大友くろぬし )
左 思ひいでて恋しき時ははつかりのなきてわたると人しるらめや
右 すだく虫さとに鳴きやみ君かもと妻戸にたてば風の訪ひ過ぐ
じっと待ちきれない恋の思いを詠んだ歌。
左歌は、男の歌で、あなたを思い出して恋しくてたまらないときは、初雁が鳴きながら空を行くように、私もあなたの家の辺りを泣きながら歩いている、そのことをあなたは知っているだろうか、と詠んだもの。
右歌は、女の歌で、今まで鳴いていた虫の音が急に鳴き止んだので、もしやあなたが来てくれたのかと妻戸まで行って様子をみたが、あなたの影はなく秋風が吹き過ぎているだけだった、と詠っているもの。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合九番
(秋歌上 232 つらゆき)
左 たが秋にあらぬものゆゑ女郎花なぞ色にいでてまだきうつろふ
右 手折らむと思ひしものを女郎花色うつろひて末枯れにけり
女郎花は、その名前に心惹かれるためか平安時代よく歌に詠まれ、「女郎花合」という遊びまであったぐらいである。
左歌は、誰にだけ秋がくるというのでもないのに、女郎花よ、どうしてそんなに早く色あせてしまったのか、と詠ったもの。女郎花は、秋の花とはいえ、夏の終わりから秋にかけて咲き始め、早く咲き終わるからであろう。
右歌は、こんど行ったときは手折りて来ようと思っていながら躊躇っているうちに、秋がたけて女郎花の花は色を失せ枯れてしまったと詠ったものだが、第二層の歌意は、自分の気持ちを打ち明けて契りたいと思いながら躊躇っているうちに、女郎の方の気持ちは変わり、わたしから離れて行ってしまった、というもの。
歌合十番
(秋歌上 202 よみ人しらず)
左 枯れ進むしかはあれども待つ虫の鳴く声すなり秋の野の末
右 秋の野に人まつ虫の声すなり我かとゆきていざとぶらはむ
秋の野の虫を詠った歌。
左歌は、秋の野は随分枯れ進んでいるが、まだ野の片隅に自分を待ってくれている虫もいるだろうと思う、と詠っているもの。「進むし」に鈴虫、「待つ虫」に松虫と、一首の中に二匹の秋の虫を忍び込ませている。
右歌は、秋の野にゆくと人を待っているのか松虫が鳴いている、待っているのは自分であるか、さあ行って尋ねてこよう、と詠っているもの。
両歌とも、松虫は待っている女性のことを意味している。なお、昔、松虫と呼ばれていた虫は今の鈴虫、鈴虫と言われていた虫は松虫だそうで、なんともややこしいことである。
歌合十一番
(秋歌上 177 とものり)
左 天の河浅瀬しらなみたどりつつ渡りはてねば明けぞしにける
右 天の河たのみの渡し舵絶えて明けゆく岸のながめはるけし
天皇から歌を献上せよと言われた殿上人に代わり、職業歌人が詠んだもの。
左歌は、天の河の浅瀬の白波の立っているところをたどって渡っているので、渡りきれないで夜が明けたと詠い、右歌は、頼みにしていた天の河を渡る渡し船の舵をうまくとれなく、夜が明けてきて行き先の岸が見えてはいるが、まだはるかに遠いと詠っている。
両歌とも、これは表の意味で、天皇から歌を献上せよと言われても、自分では期限までに歌を詠めない殿上人のことを「渡り果てねば」とか「ながめはるけし」とか詠んで、揶揄しているもの。
「しらなみ」は「白波」と「知ら無み」、「ながめ」は「眺め」と「詠め」をかけている。
歌合十二番
(秋歌上 181 素性法師)
左 こよひこむ人にはあはじ七夕のひさしきほどにまちもこそすれ
右 逢へばまたまつ日の遠くたちかへり逢ふもせつなき星合ひの恋
七夕に寄せて、遠恋を詠った歌。
左歌は、今夜来る人には逢わないでおこう、七夕の今夜逢うと次に逢えるのは一年後になってしまうから、と七夕伝説をふまえ縁起をかついで詠ったもの。
右歌は、遠く離れている人たちの恋、今様に云えば遠距離恋愛は七夕の星合いのようである。年に一度の逢瀬でなくとも、一度逢えばその次に逢える時が遠い先になるで、また待つ身の辛さが逢う前に思いやられ、逢わないのはもちろん、逢うことさえも辛いことだ、と詠っているものである。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合十三番
(秋歌上 216 よみ人しらず)
左 秋萩にうらびれをればあしびきの山したとよみ鹿の鳴くらむ
右 妻恋ふる鹿の涙か萩の花あしたの山路にさはに零るる
鹿は秋に妻(雌鹿)を求めて鳴くとされ、またそのころ、萩の花が咲くので萩は鹿の「花妻」と言われている。
左歌は、牡鹿は、萩の花をみて散ってしまうのを淋しく思い、山の麓で大声を出して鳴いているのだろうと、詠っているもの。
右歌は、夜通し花妻の下で過ごしたのち、別れの辛さに零した牡鹿の紅涙だろうか、朝の山道に萩の花粒がたくさん散り零れている、と詠っているもの。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合十六番
(秋歌上 214 ただみね)
左 山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ
右 さなきだにかたはらさびしき草臥につれなくも鳴くさ牡鹿の声
雌鹿を求めて鳴く牡鹿の声を詠ったもので、古歌では秋の淋しい風情とされている。
左歌は、山里はとりわけ秋は寂しい、夜、鹿の声で目を覚まされたときは、特にそう感じるものだ、と詠っている。
右歌は、旅に出て野宿する身の一人寝はそうでなくとも淋しいのに、近くに牡鹿の鳴く声を聞くとその淋しさが堪えがたくなり、牡鹿をつれなく思うと詠っているもの。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合十七番
(恋歌三 642 よみ人しらず)
左 玉匣あけば君が名たちぬべみ夜ふかくこしを人見けむかも
右 後朝のつらき別れにあけゆくに人目忍ばす今朝の霧かな
逢瀬を他人に知られ、悪い噂を立てられることを恐れる心情を詠った歌。
左歌は、夜が明ければ君が噂になってしまうだろうから、夜がまだ深いうちに帰って来たのに、誰かに見つかってしまったであろうか、と心配して詠っている。
「玉匣」は櫛箱のことであるが、ここでは「あけ」にかかる枕詞。
右歌は、翌朝、別れの辛さにぐずぐずしている間に朝がだんだん明けてきたが、幸い今朝は朝霧が濃く立ちこめてきたので、他人に見つからずに帰れると楽観して詠っている。
「後朝」は一夜を共にした後の朝の意で、これを「きぬぎぬ」というのは、夜、互いの着物を敷き合って寝るが、朝、別れるときは着物が別々になるからと言われている。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合十八番
(秋歌上 243 ありはらのむねやな)
左 手児がふる袖とながめし尾花さへ秋闌けゆけば白髪と見ゆ
右 秋の野の草のたもとか花すすき穂にいでて招く袖と見ゆらむ
すすきの穂(尾花ともいう)を詠んだ歌。
左歌は、少女が人を招いて振る袖のように見えた尾花も、秋が盛りを過ぎると真っ白に枯れて老人の白髪のように見えると、すすきの穂に人の若い姿から老いてゆく姿を連想し、生あるものの移ろいを詠っているもの。
右歌は、秋の野の草の袂であろうか、花すすきの穂が出ていて、人を招いている袖のように見える、と詠ったもの。
「左」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合十九番
(秋歌下 270 きのとものり)
左 菊の弁を盞に浮かべて酌む宵は常世国にゐるここちする
右 露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しかるべく
菊の花にちなむ風習を詠った歌。
左歌は、菊の花は不老長寿の効用があると信じられ、重陽の節句に、菊の花弁を杯(盞)に浮かべて酒を飲むと、酔って不老不死の国にいるような気持ちになる、と詠ったもの。
また、菊の花に置く露にも不老長寿の効用があるとされ、飲んだり肌につけたりしたが、右歌はこれを詠ったもので、露のついたまま菊の花を折って頭に飾り、いつまでも老いることがないようにと、願い詠ったものである。
「左」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二十番
(秋歌下 278 よみ人しらず)
左 霜降りて菊のふたたび匂ふがに老いの行方もかくありまほし
右 いろかはる秋の菊をばひととせにふたたび匂ふ花とこそ見れ
むかしの人は、霜に当たって色が変わった菊の花に風情を感じたようだ。
左歌は、菊の花に霜が降りても直ちに枯れることはなく、むしろ別の趣きがでるように自分も髪が白くなるようになっても、気色覚ゆる老後でありたいと詠ったもの。
右歌は、霜に当たって菊の花は色が変わるが、その色にまた風情があり、菊が、一年に二度も花を咲かせたように見える、と詠っている。
「左」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二十一番
(秋歌下 257 壬生忠岑)
左 わが置きぬ涙の露の深ければ屋戸の紅葉は色まさりけり
右 白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢにそむらむ
左歌は、我が家の木々の葉には、私が夜毎に流している涙が深い露となって置いているので、他よりは紅葉の色が濃い、と詠っているもの。
これに対し右歌は、露の色は白一色であるのに、どうして秋には木々の葉が色々な色に染まるのだろう、と疑問を呈した歌。
当時、秋の露によって紅葉に染まると詠うことが、誰疑うことのない常套の表現であるなかで、右歌の発想は、科学的な疑問を呈するもので面白い。
「左」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二十二番
(恋歌五 782 をののこまち)
左 今はとてわが身時雨にふりぬれば言の葉さへに移ろひにけり
右 移ろはぬものなき世世と思ひしが秋闌けゆけばわが身も時雨る
恋の終わりを時雨に寄せて詠った歌。
左歌は、今となって、時雨に木の葉の色が変わるように自分の身も老いてしまったので、あなたの言葉も色褪せてしまった、と詠っているもの。
右歌は、世の中に変わらないものはないと思っていたが、やはりあなたの心に飽きがきて、独りで生きてゆく自分の身は晩秋の時雨が降るように涙で濡れている、と詠んでいる。
「世」は、男女の仲を意味し、「世よ」に掛けている「世世」は男女の仲が絶えて、別々の世界で生きることを意味している。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二十三番
(秋歌下 250 文屋あさやす)
左 草も木も色かはれどもわたつみの波の花にぞ秋なかりける
右 海原の白き波の穂あさゆふに散れど尽きせぬ常しへの花
白い波頭や飛沫を波の花と見立てたもの。
左歌は、花の咲く普通の草木は、秋に紅葉あるいは黄葉して色を変えるが、海原の波の花は一年中白く色を変えないから秋はない、と詠ったもの。
右歌は、海の原に咲いている波の白い穂は、朝夕を問わず散っても散っても、散り尽くすことのない、永久に咲いている花だと詠んでいる。
これらの歌に対する評価は、歌に対する考え方によって異なるが、波の飛沫等を花と見るまでは「観察」であるが、秋がない、常しえの花というのは頭の中の「遊戯」であろう。古今和歌集では、後者も歌の要素と考えられており、「巻 第十九 雑体」の中に「俳諧歌」という部立てがあり、この種の歌が実に五十八首も収められている。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二十七番
(秋歌下 288 よみ人しらず)
左 ふみわけてさらにやとはむ紅葉葉の降り隠くしてし道とみながら
右 ちりつもる落葉にゆくへ隠くされて鹿に道とふ秋の山かな
落葉の山路を詠った歌。
左歌は、散った紅葉葉が道を隠しているのは、きっと紅葉が山奥で隠棲している人の気持ちを思ってのことだろうと思いながら、さらに山路に踏み分けてその人を訪ねようか、と詠っているもの。
右歌は、散り積もった落葉に行方の道を蔽い隠されて、秋の山中で立ち往生した人が、鹿に道を聞いた(鹿の踏み分け道を探した)と詠っている。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二十八番
(恋歌一 522 読人しらず)
左 行く水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり
右 思はれぬ人を思ふははかなきに思ふ心ぞはかなからざる
はかない恋を詠った歌。
左歌は、流れる水に数字を書くことは無駄なことだが、それよりももっと無駄なことは、思ってくれない人を思うことである、と詠っている。
右歌は、思ってくれない人を思うのは無駄なことであると分っていても、その人を思わないでいられないこの思いは、果かなくすぐに消えてしまうようなものでない、と無駄なことと知りながら抑えがたい思いを詠っている。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。
歌合二十九番
(秋歌下 264 よみ人しらず)
左 さにづらふ紅葉の下照りぬばたまの暗き軒端にほの明りする
右 ちらねどもかねてぞおしきもみぢばは今は限りの色と見つれば
紅葉の盛りを詠った歌。
左歌は、庭の紅葉が今みごとに色づいて、その紅い色が地面に映え、さらに暗い軒端までも仄かに明るくしている、と詠んでいる。
「さにづらふ」は紅葉に、「ぬばたま」は暗きにかかる枕詞。一首に二つの枕詞を入れているのが趣向。
右歌は、色づいている紅葉を見て、今が最高の美しさだと思うので、まだ散っていないけれど散ってしまうことを思うと惜しい、と詠っているもの。
「右」の歌が良いと思われたときは、下記の「拍手」をクリックして下さい。









